認めること、ほっとすること。
こんばんは、かのです*
わたしには4つ離れた妹がいるのですが、つい先日、一緒に買い物へ出かけました。
アクセサリーを見ていたとき、「あちらは妹さんですか?」と、少し遠くにいる妹が店員さんに尋ねられていました。。
今年から妹はひとり暮らしを始めました。
すごく寂しいという感じではないのだけど前と変わりました。
自分の身の周りで変化があるとき、今までのものが「懐かしいもの」になったり、「当たり前」が別のものになってしまうことに切なさや寂しさや悲しさがぐるぐる混ざったものが残ります。
最近は「変わりたくないな。」と、思う毎日です。
自分がたまに感じていたりする他愛もないできごとに嬉くなる気持ちや、生活の中でほっとする気持ちを今とおんなじ温度のまま失くしたくないです。
少し昔のことですが、わたしは20歳の頃から、摂食障害やうつ病、不安障害といった心身の症状を経験しました。
いくつもの葛藤と不安を抱えたまま競技に打ち込んで、この前まであったはずの生活があっという間になくなってしまい気づけば泣いていたり、自分が誰だかわからなくなったり、人生を投げ出してしまいたいと考えたことが何度もありました。
誰かに会って「嬉しい」とか、食事に出かけて「美味しい」とか「楽しい」とか、そういう気持ちも湧いてくれなくて、別れた後にも明日にも残ってくれなくなってしまうことがあるんだ。と、感じました。
「お腹がすいた〜」と好きなものを食べ、「疲れた、ねむたい」とあくびが出て眠る。当たり前にあったはずの生活が、あまりに遠く手の届かないものになってしまうことがあるんだと知りました。
大事なものを失くしたくないです。
日々何かを受ける度、いろんな意味で、わたしは今日まで何をしていたんだろう。と、自信がなくなるときがあります。
決めたことをやってきて、そのときはそれが一番いいと思ったはずで、今もそうで、けれど見方を変えると自分の視野の狭さを感じたり、自分の未熟さを感じたりして突然迷子になるような。
いろんなことを知って考え方が広くなるほどこれでいいのかわからなっていくと知り合いの方は話されていました。
一つのモノゴトからたくさんのことを受け取ったり、考え込んでしまうところが昔からあって、いくつかのことが自分の中で同時に進んでしまうことも苦手でした。
それをわかっても上手くやれない自分に怒ったり、自分で自分を嫌がったりしたこともよくあり、感情に振り回されてしまうことも否定的に捉えていたことがありました。
けれど自分だから受け取れることがあって、自分だからその言動になって、自分だから上手くいかないことがあって、それが「らしさ」だと言うのなら少しだけ心が明るくなるような気持ちになったこともありました。
自分のことを考えるタイミング、それにかかる時間はきっと人それぞれで、けれど、それとは別にわたしは目指すものと憧れを混同したこともありました。
自分の目指せる形、自分が安心する形、それを置き去りにしても憧れを重ねようとするわたしがいて、「こんな人になりたい」という強い憧れはたくさんの無理になって自分を傷つけることにつながりました。
それで最近思うことがあって、なんとなく、「認める」というのはすごく難しい気がしていたのだけれど、それは自分の中の「ほっとする」を見つけることのような気がします。
自分の見られ方や見え方、ステータスや夢よりも、まずは自分の見ている景色、感じている感覚の中で安心やほかほかする気持ちを見つけられることが今のわたし自身も大事にしたいことです。
知らない感情を経験して、知らない思いを経験して、これからもそうやって大人になるのだとしたら少しうんざりするような、けれど大切だと思う時間の中にいると「きっとあっという間。」という気持ちになったりもします。
気持ちは動いてばかりですが、時間は、少し愛しいです。
ご精読いただきありがとうございます。
寒くなったのでご自愛くださいね〜🍠